私だけかもしれないのだが、インターネットユーザという言葉にはどうにも強い違和感を抱かざるを得ない。インターネットとは何なのか、それは現在においてはよくわからなくなってしまっているのであるが、そもそもは自立共生な社会をつくるための道具であり、またそれは与えられるものではなく参画するみんなで構成するものであったはずだと私は思っている。
その思想はインターネットとはあまり縁のない思想家 Ivan Illichi の Tools for Conviviality (1973) に書かれていた。その訳書、「コンヴィヴィアリティのための道具」は現在絶版となっているようなので、長くなる引用をお許し頂き、インターネットユーザという言葉がいかに違和感のあるものであるかを、その中から読み取ってみたい。
私の信じるところでは、社会は、新しい生産システムの全体効率に対する、自立的な個人と一次集団の貢献度をより大きくするような方向で、再建されねばならない。「コンヴィヴィアリティのための道具」第二章より,イヴァン・イリイチ,渡辺京二/渡辺梨佐訳,日本エディターズスクール出版部
(中略)
実際には、産業主義的社会の諸制度はまさにその反対のことをしている。機械の力が増大するにつれて、人間の役割はますます消費者の役割に押し下げられていく。
(中略)
人々は物を手に入れる必要があるだけではない。暮らしを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みに従って形を与える自由、他人をかまったり世話をしたりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。
(中略)
豊める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権を持たないし、その品物をどうするかということも決められない。彼らの刑罰は、私のいわゆるコンヴィヴィアリティを剥奪されていることに存する。彼らは単なる消費者の地位に降格されているのだ。
(中略)
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私はコンヴィヴィアリティという用語を選ぶ。私はその言葉に、各人の間の自立的で創造的な交わりと、各人の環境の同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射つけられた反応とは対照的な意味を持たせようと思う。私は、コンヴィヴィアリティとは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようのなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。
(中略)
技術官僚支配がもたらす災厄にかわる選択として、私はコンヴィヴィアルな社会のヴィジョンを提案する。コンヴィヴィアルな社会が実現できるとすれば、それは、もっとも十分にかつもっとも自由に地域社会の諸道具を利用できる機会を各成員に保証し、しかもこの自由を他の成員の同等の自由のためにのみ制限するような社会的配置の結果であろう。
そう、インターネットに参加する我々が、単なる利用者、消費者となるとき、我々は囚人となるのである。これからの社会は法より以前にコード/技術が規定する社会となることはローレンス・レッシグ教授の弁を待つまでもない。国に危惧を抱く前に、技術に危惧を抱かなくてはいけない。技術がニュートラルでないことはこれも30年以上前にE.F.シューマッハーが説いている。我々自身が哲学をもって技術を自律的にコントロールしていかないと、我々は技術の奴隷となってしまうのである。
アークランプさんのところでこんな記事を発見。シンクロニシティ?
http://www.arclamp.jp/blog/archives/sensorium.html
そこで引用されているリビングワールドの西村佳哲氏のレクチャーに出てくる次のフレーズがまさにコンヴィヴィアルである。
デザインの最大の目的は、人の「生きる力」を最大限に引き出すことだと思います。しかし、近代はこうしたブラックボックス化を通じて、人々を「生きる人」でなく、単なる「ユーザ」や「消費者」に限定してきました。これは、人間をスポイルしてしまう行為だと私は思います。Designing World-realm Experiences:The Absence of World "Users"(世界経験のデザイン_"世界"に"ユーザー"はいない)より
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「お客様」でいたい人が増えて困ってるのはインターネットだけではないです。教室も,いや,職員室も…
僕も「お客様」でいられたらどれだけ楽なんだろうなあって思います。<br>教室も、職員室もみんなお客様ばかり。<br>おいらひねくれてるから、生徒に対しては鏡と化します。
学校とは、その制度に甘んじていればそれでよく、甘んじられなかった人々はふるい落とされる、そういうものなんだと、そしてそんな学校や、学校化した社会からは脱してコンヴィヴィアルな社会をつくらなくてはならないのだと「脱学校の社会」でイリイチは説いています。
Convivalityというのは、共同体幻想を共有するものにはならないのでしょうか。共同体幻想は、ポストモダンにはそぐわないものでしょう。<br><br>なんだか最近、デリダの周辺をさまよって乱読してます。
イリイチのコンヴィヴィアリティは地域文化の重視すなわちヴァナキュラー(「シャドウ・ワーク」参照)な生活を目指したものです。<br>インターネットはそのヴァナキュラーな面を見失ってモノリシックな共同体幻想に走ってしまったところに失敗があったのでしょう。<br>デリダもいいですが、現在のインターネット(のようなもの)はボードリヤールのような超ニヒリズムで解釈するほうがいいんじゃないかと思っています。幻想の根拠すら失った幻想だと思います。
絶版と書いていましたが、最近文庫本で再刊されています。喜ばしい。